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【北条時宗】世界最強のモンゴル帝国から日本を守った英雄は当時16歳の少年だった

【北条時宗】世界最強のモンゴル帝国から日本を守った英雄は当時16歳の少年だった

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百田尚樹さんの『日本国紀』をもとに、今回は鎌倉時代、日本を守った英雄、北条時宗について紹介します!

鎌倉時代ってどんな時代?

良い国作ろう鎌倉幕府でお馴染み(成立年は諸説あり)、1192年から始まったとされる鎌倉時代。平安時代の貴族文化から、武士の文化へと変化した時代です。

鎌倉時代の特徴は、

  • 貨幣の誕生による商業の発達
  • 法然と親鸞による浄土宗・浄土真宗という新しい仏教や禅の普及
  • 『平家物語』や吉田兼好の『徒然草』、鴨長明の『方丈記』などの文学の登場

などが挙げられます。

そして、なんと言っても歴史上世界最大規模で国を支配していたモンゴル帝国からの襲来があった時代です。これは日本三大国難のうちのひとつとも呼ばれるほどの日本の危機でした。

モンゴル帝国の支配

チンギス・ハーン

チンギス・ハーン率いるモンゴル民族は、ユーラシア大陸のほとんどを支配する巨大な帝国を築いていました。

支配していた国の面積はこんな感じ(ウィキペディアより引用)。

それは、ヨーロッパの人々も脅かすほどの勢いでした。

これ、どれくらい巨大かというと、当時の世界人口の半数以上を統治する規模だったそうです。

ゆうすけ

怖すぎ・・・

フビライ・ハーン

で、この大きな帝国は後にいくつか分かれて、中国大陸を支配したフビライ・ハーン(チンギス・ハーンの孫)は、日本も服従させようと考えました。

そこで、武力制圧をほのめかした文書を日本に送りました。

一方そのころ日本は・・・

鎌倉幕府の実権を握っていたのは、執権という補佐的な立場にいた北条家でした。

そして、モンゴル帝国からの圧力を受けていたときに執権に就任していたのが北条時宗という男で、当時満16歳という若さでした。

支配を広げていったモンゴル帝国の「次は日本を服従するぞ」という手紙に対して、北条時宗は返信せず、無視を決め込みました。

これに対して著者はこんな考察をしています。

想像だが、彼は日本国を預かる執権として屈辱的な外交はできないという誇りを持っていたのだろう

p99

そして、時宗は、武士たちに防御態勢をとることを命じて、モンゴル帝国の軍隊の襲来に備えました。

モンゴル帝国からの2度の襲来

文永の役

最初に手紙が送られてから6年後の文永11年(1274年)、フビライ・ハーンはついに日本に軍隊を送り込んできました。

まず、長崎県に属する対馬が襲われ、そのあと壱岐が襲われ多くの島民が虐殺されました。

ただ、日本軍も負けず劣らず懸命に戦い、敵軍にかなりの損害を与えました。

その甲斐あって、敵軍はわずか二週間で引き上げることとなり、多大な損害を被ったものの迎え撃つことができたということとなります。

この戦いは「文永の役」と呼ばれる歴史的な出来事でした。

弘安の役

ただ、文永の役は、日本軍の威力がどれほどのものかを偵察することが目的だったのではないか、という説もあるそうです。

次に敵軍が襲ってくるときには、さらに総力を上げてくるに違いないと、鎌倉幕府は決して安心することができませんでした。

文永の役から7年後、弘安4年(1281年)、フビライ・ハーンは再び日本侵略のため軍隊を送り込みました。

その軍隊の数は、それまでの世界史上最大の規模で、兵士の数は約15万人、これは文永の役の四倍の規模だそうです。

細かなことは省略しますが、このとき九州北部を襲った台風によって、敵軍の船の多くが沈没したことが、大きな打撃となったそうです。

NOTE

これは後に「神風」と呼ばれ「日本には神のご加護がある」という一種の信仰のようなものが生まれました。

日本軍の軍事力の高さのおかげもあって、この襲来からも日本は防衛することに成功しました。

この戦いを「弘安の役」と呼び、「文永の役」と合わせてこの2度の襲来を元寇と呼びます。

その後も、フビライ・ハーンは日本侵略を諦めずに計画を立てたそうですが、フビライ・ハーンの死によって計画が中止されました。

若き英雄・北条時宗

最初に、フビライ・ハーンから日本侵略の脅しの手紙が来たとき、朝廷は返事の文書を出そうとしていたんですね。外交の文書に返事をしないというのは失礼な行為だからです。

ただ、そもそも「支配するぞ!」なんて手紙そのものが失礼な態度であり、時宗は大帝国との戦いをやむを得ないと考えていたからこその無視という強気な行動をとったわけです。

  • 日本の軍事力の高さの把握
  • 時宗の優れた外交感覚・決断力
  • 武士を整備して防御態勢を取る計画

実際にこれら時宗の判断によって日本が、支配されずに済んだことは事実、結果論ですが功を奏したわけです。

これについて本書の言葉を引用します。

世界の大半を征服したモンゴル人からの攻撃を二度までも打ち破った国は、日本とベトナムだけである。これは日本人として大いに胸を張ってもいいことだと私は思う。

なお北条時宗は「弘安の役」の三年後、三十二歳の若さで世を去った。文学的な修辞を使うことが許されるなら、時宗とは、蒙古から日本を守るために生まれてきた男であった。

p105

モンゴル帝国から脅しの手紙を貰ったときに執権に就任し、元寇が終わってこの世を去った。死因はいくつか説があるみたいです…。

ゆうすけ

当時16歳だった少年に国の命運をわける判断を強いられたことは、正直、僕の頭では想像すらできないことです…。

歴史に詳しくない浅はかな見解だとは思いますが、モンゴル帝国からの脅しの対処ペコペコするのではなく、日本の力を信じてその侵略をうけてたったのは男気のある判断だなと思います。普通ビビるって。

今の日本があるのは、北条時宗のような男や、勇敢に戦った武士がいることは、忘れてはいけないことのように思います。