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「動物愛護」って言ってる時点で虐待なくならないよね?

コロナ禍でペットを飼う人がグッと増えて、その反動で飼育放棄する人が増えたそうです。「安易な気持ちで命を飼うな」というのはごもっともな指摘だと思います。

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「動物愛護」という言葉

動物愛護の対象はペットですし、動物愛護という言葉からもわかるように「やっぱり人間の管理下にある」というのが根底の意識なんですよね。

つまり、猫や犬は人間のもとで愛されて育てられないと生きていられない存在である、と。

こちらの本にはこんなことが書かれていました。

長期的にはコンパニオン動物は絶滅に向かって漸減し続けるのが倫理的には正しいということになりそうである。

いくら大切にされるからといって、隷属させられることが生存の基本条件になっていて、自然な生殖本能に委ねると不幸になり、去勢がむしろ幸せをもたらすような動物は、その最も根源的な生の次元においては生まれることそれ自体が不幸な存在だということになろう。

p168

  1. ペットは必ず隷属的な関係になる
  2. (関係的に)人間が強くて、ペットは弱い立場になる
  3. そりゃ当然虐待はなくならないよね

こういった構造がある以上ペット虐待はなくならないんじゃないかな、と。

人間の間ですら「いじめ」が社会問題になっているに「ペットの存在は認める!でも虐待はしないで!」なんてのは無理ゲーでしょう。

もちろんちゃんと育てている人のことを否定できるわけじゃないし、虐待をする人が悪いというのは、そりゃそうなんだけど。

そもそもの構造がその社会問題(ペット虐待や殺処分)を生み出してしまっているわけだから、ペットを飼うことを肯定だけするというのはその問題に加担してしまってる側面もありそうですよね(何度も言うけど、きちんと育てている人は悪くない)。

、、、と考えると「コンパニオン動物(ペット)は絶滅に向かうほうが倫理的に正しい」というのは、とても理にかなっているように思えます。

動物好きってなんやねん

「僕(私)、動物好きなんです」って言う人いるけど、その言葉めっちゃ変だよ。細かいかもしれないけど。

動物って、、、植物以外の全部やん。

あまりにも動物ってのが昆虫とか魚を無視しすぎて「動物とは」でググっちゃいましたよ。

「動物好きなんです」って要は「可愛い動物が」好きってことでしょ。ほとんどの動物全無視かよ。

「動物」で検索したら見事に人が好むような見た目の生き物ばかり

僕も実家に可愛い猫ちゃんがいるので、「動物が好き!」って気持ちは超わかるんですけど、可愛い動物以外を全部除外してんじゃん。

なんか、、、その視野の狭さというか、人間勝手すぎる見方がどうも受け入れ難いんですよね・・・。

ゴキブリは殺すことが推奨されているのに、猫が殺されるとダメな理由ってなんなんでしょう???

いや、いいと思うんですよ。この世界は人間が断トツで牛耳っているので、人間の都合の良いように生き散らかすのは別に悪いことじゃないと思うんです。他の動物だって、たぶん自己中にみんな生きてるだろうし。

でも、そんななかで「動物にも優しく!殺処分ダメ!虐待許せない!」みたいな発言をみると、

「え!?!?!!?!?牛豚鳥たべてるのに!?!!ゴキブリは意味もなくヤルのに?!?!?!それらは全無視ですか?!!!?動物なのに!?!!!?自己中すぎない!?!!!?」とか、思っちゃうんです。

自分の可愛い対象を愛でるのは勝手ですが、あらゆることを全無視してるくせに、都合よく口出しだけするのはどうなん?

こういう話に「いや〜、ゴキブリとか気持ち悪い生き物は別でしょ〜。細かいこと気にするなよ〜。」って思う人は、ペット虐待に関しても同じスタンスでいてほしいですね。

ぼくらは種差別主義者

こういった動物に対する差別を「種差別」と言います。この言葉は1975年に出版された『動物の解放』という本から使われるようになったと言われています。

猫や犬を作りすぎたら殺処分して、牛豚鳥の多くのはさもモノの工場かのように量産されて、人間のための医療実験で動物が使われる。

僕らは何の疑いもなく、動物を差別しています。それらが当たり前であるかのように。

この『動物の解放』という本は「第一章:すべての動物は平等である」と書かれています。これはもちろん、猫にも選挙権を与えよという話ではありません。

「平等な配慮」が必要って話です。平等な配慮ってなんやねんって感じたと思います。

そこで著者は、功利主義(最大多数の最大幸福)の創始者であるベンサムの言葉を借りて「苦しむ能力」というキーワードを持ち込みます。

皮膚の色が黒いからといって、ある人間にはなんらの代償も与えないで、気まぐれに苦しみを与えてよいということにはならない。

同様に、いつの日か、足の本数や皮膚の毛深さがどうであるから、あるいはしっぽの有無がどうであるからというので、ある感覚をもった生きものをひどい目にあわせてよいということにはならないということが、認識される時がくるかもしれない。

いったいどこで越えられない一線をひくことができるのだろうか?

 

問題となるのは、理性を働かせることができるかどうか、とか、話すことができるかどうか、ではなくて、苦しむことができるかどうかということである。

p28

よくヴィーガンに対して「植物も生きているのに食べていいのか?」という意見がありますが、植物は苦しむことができないと考えられていることが大きな線引きになっています。

つまり、殺処分で猫に苦痛を与えることも、牛豚鳥を劣悪な環境で育てることも、動物実験も、平等な配慮とは言えないのです。

ちなみに、海外では「動物愛護」というより「動物虐待防止」の意味合いが強いらしいです。

こういった言葉ひとつとってもやっぱり日本は海外に比べて動物福祉が遅れているのかなと思います。

僕らが動物に対するとるべき本当のスタンスって「動物に苦痛を与えちゃダメ!」ってことなんですよね。

何が言いたいかって…

動物福祉に関して「こうあるべき!」というのが全くわからない…。

何が言いたいかって、自分がまだ何を言いたいのかもわかっていなくて、でもなんか社会の風潮にモヤモヤしていて…という感じです。

このモヤモヤって僕だけなんですかね…