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ゆうすけ
今回は、谷川多佳子さんの『デカルト『方法序説』を読む』を読んだので、デカルトについて基本的なところを解説します。
- デカルトという人物について
- 「我思う、ゆえに我あり」ってどういう意味?
- 方法序説って何が書いてあるの?
著者の谷川多佳子さんは、方法序説の日本語訳を書かれた方です。
デカルトについて
ルネ・デカルト(仏: René Descartes、1596年3月31日 – 1650年2月11日)は、フランス生まれの哲学者、数学者。合理主義哲学の祖であり、近世哲学の祖として知られる。
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
デカルトは、近代哲学の父とも呼ばれるほど有名な哲学者ですが、数学者としても名を残しています。
デカルトが考案した概念は今でも数学の教科書で習うほどのものです。
- 未知数にx,y 既知数にa,b,cを用いることを考案
- べき乗(数の肩に数字を書く2の2乗など)の表記を考案
- 二次元座標(xy座標)を考案(デカルト座標とも呼ぶ)
ゆうすけ
それだけでなくデカルトはあらゆる学問に精通しており、書物を読むだけでは過去に取り残されて現在を知ることはできないと言い、「世界という大きな書物」を知ると言って旅に出ます。
スケール違いすぎワロタです。
「我思う、ゆえに我あり」ってどういう意味?
デカルトの「我思う、ゆえに我あり」という言葉は有名ですよね。
フレーズだけ知っていても意味がわからないので、デカルトがその言葉に至るまでの経緯を解説していきます。
デカルトは数学が好きだった
方法序説にはこんなことが書かれています。
わたしは何よりも数学が好きだった。論拠の確実性と明証性のゆえである。
谷川多佳子『デカルト『方法序説』を読む』p65
あらゆる学問に精通していたデカルトですが、数学に関してはこんなことを言っています。
数学の基礎はあれほど揺ぎなく堅固なのに、もっと高い学問が何もその上に気づかれなかったのを意外に思った。
谷川多佳子『デカルト『方法序説』を読む』p65
みなさん、勉強していて「これがあるなら、もっと発展した学問があっていいのに…」と思ったことありますか?僕はないです。
ゆうすけ
数学という学問は、絶対的に正しいと言えることを出発点として、あらゆる定理が導き出されます。
二つの点があったとき直線が一本引けるとか、平行な二つの直線は交わらないとか、証明する必要のない絶対的な事実をもとに、「三角形の内角の大きさの和は180度」などの定理が導き出されて、その定理からさらに新たな定理が導き出され・・・みたいなことです。
数学を哲学に応用した
この数学の考えを哲学に応用したのがデカルトです。
それまでの学問とか哲学は、偉そうな人が不確実なまま、抽象的な話をアレコレとしていました。
これについてデカルトはバッサリと切り捨てた言葉を残しています。
古代人の解析と現代人の代数は、両者とも、ひどく抽象的で何の役にも立たないことにだけ用いられている
精神を培う学問どころか、かえって精神を混乱におとしいれる、錯雑で不明瞭な術になってしまった。
谷川多佳子『デカルト『方法序説』を読む』p86
多くの学者の考えを寄せ集めたものよりも「一人の良識ある人間が考えた方がいいよね」ということです。
要は・・・「お前ら学者はあーだこーだ言って役に立たない学問確立しやがって。なら俺様がそれぶっ壊して、正しい学び方っての教えてやんよ」ってことです(おれ的解釈なのでそこは悪しからず)。
デカルトが抽象的なものを嫌い、確実なものを好むのは、確実なものを出発点にしないとその後がムダになるからです。
数学は、最初の絶対的に正しいとした出発点がそもそもおかしいと、そのあとに導き出される定理もおかしなものになってしまい、その苦労が水の泡です。
デカルトの方法的懐疑
デカルトは哲学において「絶対的に正しい」ものを追求するために何をしたのか…??
あらゆることを疑ったんです。
目の前にリンゴがあっても、それは実は夢を見ているだけで、本当はリンゴなんてないのかも?とか。
だとしたら、自分が見ているもの全て真実だと証明することはできない。
あの数学とか論理さえ、正しいと僕らが認識しているだけであって、正しいと勘違いしているかもしれない・・・。
もうめちゃくちゃに何もかも疑ったときに気づいたんですね。
「疑っている私がいる」ということは
確かなんじゃないか?って
だって、「疑っている私がいる」ということを、さらに疑ったとしたら、やっぱり疑っている私がいるからです。
これが、日本語で訳されてあの有名な「我思う、ゆえに我あり」という言葉になったというわけです。
この疑って疑いまくって、正しいことを見つける方法は「方法的懐疑」と呼ばれます。
少しでも疑いうるものはすべて偽りとみなしたうえで,まったく疑いえない絶対に確実なものが残らないかどうかを探る態度。それは懐疑論と異なり,すべてを偽りとする判断ではなく,真理を得る方法
コトバンクより方法的懐疑の説明
数学が、絶対的に正しいことを出発点にあらゆる定理を導いてきたことと同じように、哲学においても、絶対的に正しい確かな出発点を決定したことから、近代哲学の父と呼ばれているわけです。
方法序説って何が書いてあるの?
そんなデカルトが書いた書物の中で最も有名なのが『方法序説』です。この本は、1673年、オランダで出版されたもの。
フルタイトルは「理性を正しく導き、学問において真理を探究するための方法の話。加えて、その方法の試みである屈折光学、気象学、幾何学」です。
タイトルからわかるように、全体は「屈折光学」「気象学」「幾何学」という三つの科学論文で、その序文としてつけられたのが『方法序説』ということです。全体は500ページを超える大作で、『方法序説』は78ページです。
方法序説では「正しく真理を探究するためにはどうすればいいのか?」について書かれています。
方法序説は六部構成
細かく説明していくと長くなってしまうのでざっくり紹介します。
- 第一部:良識と学問
- 第二部:炉部屋の施策と学問の方法
- 第三部:モラルの問題
- 第四部:コギト・エルゴ・スムと神の存在
- 第五部:機械論的自然学の構想
- 第六部:自然の研究と学問の展望
ぶっちゃけ、解説書を読んでもほとんど理解できませんでした…。
4つの規則
第二部で書かれている4つの規則が一番有名かと思います。物事はシンプルできちんと守ればこの4つのルールでOKということです。それぞれ少し省略して簡単に解説していきます。
第一は、「わたしが明証的に真であると認めるのでなければ、どんなことも真として受け入れないこと」
谷川多佳子『デカルト『方法序説』を読む』p90
これは、さきほどまでの話と同様、抽象的なものから出発してしまうから、慎重に注意深く、疑いの余地がないほど明瞭なことを真実としましょう、ということ。
第二は、「わたしが検討する難問の一つ一つを、できるだけ多くの、しかも問題をよりよく解くために必要なだけの小部分に分割すること」
谷川多佳子『デカルト『方法序説』を読む』p90
難しいことは、できるだけ分割して考えた方がいいということ。
第三は、「わたしの思考を順序にしたがって導くこと。そこでは、もっとも単純でもっとも認識しやすいものから始めて、少しずつ、階段を昇るようにして、もっとも複雑なものの認識にまで昇っていき、自然のままでは互いに前後の順序がつかないものの間にさえも順序を想定して進むこと」
谷川多佳子『デカルト『方法序説』を読む』p90
ちゃんと順序立てて、簡単ことものからだんだんと難しいことを認識していこうということ。
第四は、「すべての場合に、完全な枚挙と全体にわたる見直しをして、なにも見落とさなかったと確信すること」
谷川多佳子『デカルト『方法序説』を読む』p90
見直しをして全部チェックするということ。
ここまでみてみるとわかると思いますが、めちゃくちゃ厳密に規則を定義づけていますよね。だって、ざっくり総括してしまえば「正しく考えましょう」ということです。
まとめ
数学を哲学に応用した点・4つの規則は「正しく考えよう」と書かれている点、どちらをとってもデカルトの構想が出発点となっていることから「近代哲学の父」と呼ばれることが頷けます。
僕らって、小さな頃から教科書にすでに正解があって、それらを理解する作業をしてきましたよね。
ゆうすけ
学校の授業では1時間で終わってしまう内容、それらは、先人たちが一生をかけて確立してきた考え方を繋いできたものなんですよね。
数学で公式を覚えるとか、物理法則を習うとか、頭に詰め込むことに必死で「疑う」習慣ってなかったなと、学生時代を振り返って思いました。
これは別に「既存の法則を疑ってみよう」とか「常識を疑おう」とか、そういうことが言いたいのではなくて、こういった歴史を経て今の数学とか哲学などの学問が成り立っているということが知れるだけで、学ぶ意識が変わるんじゃないかと思います。
だって、人類の長い歴史から見たらデカルトが生きていた時代と我々、そんな変わらないですからね。
日本は島国で、しかも鎖国をしていたので、グローバル化による激変の時代を生きているのだと再確認できました。
ゆうすけ